1980年代後半・1990年代前半 [編集]
この時期は、技術の発展に伴って様々な音声処理系が登場した時期であり、その中心となったのは正弦波を基に乗算を含めた複雑な演算で波形を合成するFM音源や、任意の波形を使用できるPCMであった。PCMはファミリーコンピュータにも搭載されていた例があるように80年代前半にも見られたものであるが、記憶容量・処理速度的に本格的な実用段階に達したのがこの時代である。同時発音数も増加し、10音を越えるものも珍しくなくなった。こうした高性能な音源によって、音の自由度が格段に増し、ピアノやトランペット等実際の楽器に近い音を出すことも可能になった。とは言え、当時はまだ発展途上の部分も多く、そのためこれら新音源と従来のPSGの組み合わせで各々の弱点をカバーし合う処理系なども多く見られた。
家庭用ゲーム機やパソコンでは、PCエンジンのCD-ROM?など、ディスクメディアを採用した一部のゲームにおいて、CD-DAトラックとして音楽を収録する手法[4]も使われた。
この頃の楽曲の特徴としては、音声処理系の向上によって得られた新しい音色やアンサンブル方法に主眼が置かれていることが多いという点が挙げられる。いかにサウンドを豪華にしようとしても限界があった80年代前半とも、誰でも簡単に高音質を手に入れられる現在とも異なり、この時期は音源性能やサウンドプログラマの技量が大いにサウンドの質に反映され得る状況にあり、そのためサウンドにこだわりのある制作者達がより高品質なミックスを目指してしのぎを削っていったのである。その結果、80年代前半と大差ないサウンドのゲームもあった一方で、優れたサウンドプログラミングによってオーケストラに迫る様な曲も作り出された。例えば古代祐三は『イース』の頃よりFM音源を駆使しその性能を余すことなく使ったBGMを作成した。また後年古代によるスーパーファミコンで発売された『アクトレイザー』はオーケストラを髣髴とさせる高品質なもので、その当時の水準とは比べものにならないレベルの高さに『ファイナルファンタジーIV』の開発スタッフは衝撃を受けたという[5]。
その音源構成はゲームセンターで聴き取れる音にも大きく変化を与える。FM音源は金属的な音を発音可能だが多用すると曲全体の中域が薄くなる。またPCMで人声を発音させる使い方も増え、「人声を目立たせBGMは脇役に回る」音響手法がカプコン『ストリートファイターII』の大ヒット以降対戦格闘ゲームを中心に多用され、それとともに業務用ゲームでのBGMの多くは影が薄れていった。しかしそのような状況の中でもFM・PCM音源を用いてメロディーを聴かせる既存の手法で作った曲も少なからず存在した(ナムコ『ワルキューレの伝説』『コズモギャングス』シリーズ他、タイトー『ダライアス』『ガンフロンティア』各シリーズ他など)。
制作体勢も細分化され始め、PCMを中心に用いる楽曲制作現場においては、音素材データと曲(譜面)データが独立してきたために、作曲家とは別に音素材を担当する役職も登場した。「サウンドエンジニア」などと呼ばれる。この役職は作曲家に代わりハード上で鳴る音素材の作成を行う。作曲者がゲームハード外の環境(シンセサイザなど)で作成した音素材をもとにする場合と、エンジニアがあらかじめ音素材を用意しておく場合がある。サウンドプログラマがこの役割をかねている場合もある。
また、冒頭やエンディングにおいてビデオクリップと共に主題歌を挿入する演出が取り入れられ始めたのもこの頃である。『天外魔境』シリーズや『ときめきメモリアル』などは特にその主題歌も多くのファンに受け入れられた。詳しくは下記主題歌の欄を参照。
なおサウンドトラックにおいては、ゲーム基板から直接曲を収録したオリジナルバージョンの他、曲を他の楽器などで再構成する「アレンジバージョン」が同時に収録されるようになる。初期はMIDI音源を用いた、デスクトップミュージック(DTM)に類するものが多かったが、ギターなどの生楽器の導入を経て、各メーカーがアレンジ専門のバンドを有するまでに至る。1990年に入ると、ゲームミュージックフェスティバルというライブイベントが毎年開催され、最盛期には日本青年館2DAYSで6組のバンド・ユニットがライブを繰り広げた。
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